見事に取り逃した……
ンディングの内容に関しては賛否があると思いますが、任意ラヂヲは 偽春菜 のファン活動です。セリフの内容しかり、キャラ設定しかり。特にOPの歌詞には偽春菜の設定が色濃く出ています。台本担当のふぁんさんはいつも「大筋さえ決まれば後はキャラが勝手に喋り出す」と言っていました。現状のさくらも好きですが、スタッフは偽春菜を動かしたいという思いが強かったのです。そして、それは任意ラヂヲの「さくら」としてリスナーの前に立っていたはずです。
とあるだけに残念。しかし、これをわざわざ書くというのは、やはりそれ以外の人が多すぎるのか。偽春菜は件の事件で爆発的に有名になったばかりに、多くを引き込み、そしてやはり緩やかに拡散してしまった。
オープニングの落ちは CD 版にしか無いというのは罠ですか。
「偽春菜」や「任意」がもてはやされていた当時から、自分はそれらが自分の為した成果、あるいは成功、とは思っていなかった。元より 9割方絵で決まったものだ、という考えが拭えなかったし、まともに動いていたのは僅か数ヶ月で、以降は 1年以上にも渡って使える素材がなく、宙吊りの状態が続いていた。そんな有様であれを自分の手柄だと考えるのは無理だった。これは他に有名なゴーストがいる、というようなこととは関係のないことだ。だから居心地はずっと悪かった。
偽春菜には基礎に素晴らしい文があった。それが重要だった。確かに絵は見る人をある方向に強く引っ張る。それは方向によってその価値を倍加させもするし、何分の一かに落としてしまうこともある。そして、あの絵は見せかけではなく、文章にとても良くあっていた。見た瞬間に引きつけられるという事もあるが、それよりも文を補完し、雰囲気を造り出す、そういうものだ。そして確かに強力だった。逆に強力な絵は文章を誘導し、完成度を上げる。
そんなことは当たり前だったんだ。絵だけでは、プログラムだけでは、偽春菜はあり得なかった。そのことに気付かない人は SSTP やメールチェックなどの機能をもてはやたりもした*1。確かに、プログラムのバージョンは凄まじいスピードで上がり、様々な試行錯誤がなされ、新しい機能が追加された*2。そして、その迷走の中で、文は、さくらは置き去りになった。
でも、それは仕方なかったのかもしれない。あの文はあの絵と共に書かれ、そして最早絵はない。シルエットで復活しても、点睛を欠いていたのは当然だ。
SSP があり、また数々のゴーストが生まれ、そして CROW が出来ようとしている。コミュニティーは成長し、様々な成果があがる。でもそれは、やっぱり私にとっては別のことだ。
そんな混迷の中で、彼は2度死んだ。そう。黒衣鯖人はもう居らず、その言葉は消えた。
でも、怒っている ls 氏が居る。
やられた……
とりあえず /usr/include/db1/ndbm.h と /usr/include/ndbm.h を /usr/include/gdbm-ndbm.h に symlink してひたすら rebuild って確かにコンパイル通ったが、こんなので良いのか!?